桜井(さくらい)城

2015年2月16日撮影


◆別名:

 

◆所在:

安城市桜井町城阿原

 

◆交通:

名鉄西尾線と平行して南北に走る県道44号線沿いに櫻井靖霊神社があるが、そのすぐ北側が城跡公園となっている。

 

◆歴史:

十八松平家の一つである桜井松平家の本拠地。

この地の豪族である小浦嘉平治が最初に城を構えたのが始まりとされる。応仁の乱で東軍に属した松平信光が安翔城を奪った際に松平氏の支配下に組み込まれ、松平信定の代に城としての形が整ったとされる。

信定の時代は、本丸と二の丸の周囲はそれぞれ低湿地で囲まれて、間に掛けられた橋で行き来をしていたようで、二の丸から三の丸に掛けられた橋を渡り、その先がようやく城外となる水城ともいえる城であった。

 

信定は松平宗家の三男に産まれ、長兄が人望に乏しかったため家督継承を望まれたが、叔父の松平親房の養子となったため、跡目候補から外される事となった。

その後、甥の松平清康(徳川家康の祖父)に仕え、尾張品野城攻めに従軍して品野城を与えられたが、森山崩れに乗じて清康の遺児である松平広忠(徳川家康の父)を岡崎城から追放して一旦は実権を握った。しかし、東条城の吉良氏や駿河の今川氏の援助を受けた広忠は室城に入城し、岡崎城奪回を狙う。これに対し、信定は室城攻めを行うが失敗に終わり、周囲も広忠に従属したためやむなく帰順した。

 

その後、信定の子孫も宗家に反意を示したが、三河一揆の収束とともに完全に帰服し、以後は一族として徳川家康の関東移封に伴い武蔵松山城に移り、この際桜井城は廃城となった。

 

◆現在:

周囲は埋め立ても進み住宅地となっており、昔は湿地帯に浮かぶ水城だったとは思えない。

本丸跡は一段高くなっており、碑が立てられていて、二の丸は公園となっている。  


本丸跡に建てられた桜井城址の碑


二の丸は公園となっている。

正面右の木がある所が本丸跡