保科(ほしな)城

2015年6月29日撮影


◆別名:

保科正直邸

 

◆所在:

安城市山崎町大手

 

◆交通:

 

◆歴史:

城主の保科正直の父である正俊は当初諏訪氏に所属していたが、武田氏へ仕えて、仁科信盛らと供に高遠城の守備に付いたが、武田氏滅亡の時に内藤昌豊の養子となっていた息子の内藤昌月をたより、正直らと供に上野箕輪城へと逃亡する。その後、一旦は北条氏の配下になり高遠城を奪還したが、依田信蕃や木曾義昌らが徳川家康に付くと諏訪頼忠らと供に家康の傘下となった。

 

正直は豊臣に寝返った木曾義昌を攻めるため諏訪頼忠らと木曾攻めを行うが成果を得られず、正直は木曾の抑えとなった。その後、多劫姫(父は坂部城主であった久松俊勝、母は家康の生母である於大の方で、多劫姫は家康の異父妹になる)を正室としてからは徳川一族に連なる事になった。

徳川家康が関東に転封になった時に保科城も廃城となった。

 

すぐ東にある神明社(山崎城跡)の社誌には『天正の頃、正法寺の地に城塞を築いた保科正直が神明社を深く信仰した』との記載がある。

 

◆現在:

正法寺一帯が城館跡とされているが遺構などは存在せず、正法寺の山門前に看板が立てられているのみである。